陳氏太極拳 p.3

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◆ 近代の太極拳


 20世紀に入ると伝統武術にも国家や政治と言った問題が絡み始めます。

 列強や日本との戦争により、軍の強化と国民のアイデンテティのよりどころとして、武術は重視され「国術」と呼ばれるようになっていきます。

  やがて、各地に政府や軍閥勢力による武術学校が建てられ、各流派の名人が集められました。大きなものでは南京中央国術館(八極拳の馬英図、等)や上海精武会(秘宗拳の霍元甲、等)などが挙げられます。

 これらは高名な使い手を集めて生徒を指導し、また実際の軍用の役に立つ武術の研究を行うものでした。太極拳の流派からは孫禄堂、陳照丕が南京中央国術館に、呉鋻泉が上海精武会に関わっています。

 このように伝統的な方法(血族や内弟子)とは違う形での伝承が行われたので、武術各派の普及には大きく貢献したものの、現在に至るまで流派名称や本末関係等、流派の歴史や系統に関する理解に混乱をきたす元凶ともなっています。

◆ 「拳聖」陳発科

 

 またこの時期、陳家溝から当時最高の使い手で拳聖とも呼ばれた「陳発科(ちん はっか)」が北京に招かれ、はじめて陳氏最高峰の秘技を外部に伝授しました。これによって、ほぼ楊式系の独壇場であった河北エリアに正式な陳氏太極拳が興隆することになりました。

 当時「北平」と呼ばれていた北京では、陳氏の一族で陳発科の弟子であった陳照丕(ちん しょうひ)が教えていましが、上記の通り南京中央国術館に請われて赴任することになり、師であり叔父であった陳発科に北京の自分の弟子達への指導を依頼します。

「拳聖」陳発科

 これを受けて陳家溝から移住した陳発科は「陳氏最高峰」の名に恥じぬ実力と、誰からも愛され、尊敬される高貴な人柄を発揮し、北京エリアへでの陳氏太極拳の普及に貢献します。

 現在北京周辺に伝わっている陳氏系統の武術のほぼ全てが、この陳発科に来源を有するものですし「強力無比、最強の武術」といった陳氏太極拳のイメージは主に陳発科の功績に依るところが大きいものと思えます。

 陳発科が北京に出てしまったことによって、陳家溝では逆にやや勢いが衰え、後に陳照丕や陳発科の実子である陳照奎から伝授を受け直したりしています。

 また、陳氏太極拳の伝承系統と套路名称について、この頃に混乱が起こっており、学習者の理解を妨げる要因になっています。

◆ 陳氏太極拳の系統

 

 中国武術では基本的に「套路(とうろ)」という、日本武道で言えば「カタ」に当たるものの練習を基礎とし、その「套路」にはさらに「架式(かしき)」という下位分類が存在します。

 「架式」は基本であるが故に、その風格や内容が練習を進める上での極めて大きな意味を持つものになっています。言ってみればこの「架式」こそが流派そのものだとすることが出来るでしょう。

 上記の「陳発科」の系統に連なる流派は現在「新架式」と呼ばれていますが、この伝承者達は皆、新架式と呼ばれているものこそが最も古く正当な「陳家の武術」である。と言います。

 何故、最も古いものが「新」架式なのでしょうか。

 元来「陳家の武術」は今で言う「大架式」を基本とするものでした(この頃はまだ「大架」という名前は無かったようですが)。

 1800年代初頭に陳氏一族に陳有本・有恒という兄弟の名手が出て、彼らの工夫によって(今で言うところの)「小架式」が誕生しました。この頃は、古来のものに対して新しくできた、という意味で「新架式」と呼ばれていたようです。これが混乱の第一歩です。

 また、本来の古伝であった(今で言う)「大架式」にも、秘中の秘として一族の中でもごく限られた名手にしか伝えられなかった部分があり、その秘技を隠したものと、秘技を盛り込んだものとが存在したといいます。

 この説に則れば、この時点で「(一般向けの)大架式」「(秘密の)大架式」「(新架と呼ばれていた)小架式」の3種があったことになります。

 この状況を変えたのが20世紀初頭、前述の「拳聖」陳発科の北京赴任でした。

 陳発科が北京に出向く前は、彼の甥であり弟子であった陳照丕が北京で「(一般向けの)大架式」を伝授しており、また(今で言う)「小架式」の系統の弟子達が各地で教えたりしていて、かつては秘密のベールに包まれていた陳氏太極拳も、この頃では有力な流派として認識されていました。

 陳発科は北京で、それまで一族の中でも極秘であった「(秘密の)大架式」を、はじめて外部に披露、教授し、これに対して人々は「新しい形=新架式」と呼び習わしました。

 これによって、それまで「新架」と呼ばれていたもの(今で言う小架)は、その動きのコンパクトで鋭い特徴を以て「小架」と呼ばれるようになり、陳発科が教える以前から知られていた「大架」の形は、昔からあったと言う意味で「老架」と呼ばれるようになりました。

 しかし陳発科自身は「新架」とは呼ばず、あくまで「家伝の拳」「陳氏の拳」と呼んでいたといいます(現在でも陳発科直系の孫である陳瑜老師は「新架」と言われることを嫌います)。

 このあたりは諸説あって確定しがたいところですが、多くの伝で「はじめて陳氏以外の者(楊式太極拳の祖、楊露禅)に教授したことで知られる陳長興が『老架式』を制定した」とされていることから、外部に教えることがあったのは「(一般向けの)大架式」=(今で言う)「老架式」であった、と考えることが出来ます。

 限られた使い手のみに伝授され、外部に教えたことがなかったという「(秘密の)大架式」=(今で言う)「新架式」が本来の「陳家の武術」である、という陳発科系統に伝承されている説も、理屈的にはありえるかなと考えられます。

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