陳氏太極拳 p.2

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◆ 陳氏一族の拳


 陳王廷が編み出し、一族に教えた武術はじつに強力なものでした。

 広大な国土と厳しい気候状況を持つ中国では、災害などにより飢饉が発生すると、集落ごと山賊化して隣村を襲ったり、隊商を狙ったりと言うことが頻発し、またそれ以外にも常時専門の強盗団が各地を跋渉していました。

 そのため、長距離を移動する隊商などは、お金を出して雇った護衛の傭兵を連れて行くのがほぼ常識となっており、それら傭兵は今で言うマネジメント企業のようなものに所属していました。

 武術を修めた陳氏の一族はこの傭兵団の戦士として高名になり、村自体がその管理会社として機能するようになっていました。

 隊商を待ち構える山賊も、その隊についているのが陳氏の一族と知ると、決して手を出さなかったと言います。

 言うなれば、この頃の「陳家の武術」は現代で言うところの戦略兵器に近いものがあり、核兵器や潜水艦、ステルス戦闘機等の技術が最高機密であるように外部には固く秘密とされ、練習しているところさえも見せることがない、極秘の術として一族にだけ伝承されたものでした。

◆ 陳長興と楊露禅

 1800年代前半、河北省の人「楊露禅(よう ろぜん)」は幼い頃より武術を好み、なんとか、どこかの名人に習いたいものだと願っていました。しかし家は貧乏で、武術など教えてもらう余裕もなく、仕方がないので店の丁稚として働くことになります。

 このとき彼がたまたま働くことになった薬店の店主が、河南省温県陳家溝出身の陳徳瑚(ちん とくこ)でした。

 陳徳瑚は、まじめ、誠実で賢い楊露禅の人柄を見て気に入り、陳家溝で薬を販売する仕事を言いつけます。

楊露禅

 そこで、当代一の使い手「陳長興(ちん ちょうこう)」に出会った楊は深く憧れ、彼のもとで修行したいと思いますが、第一に仕事が忙しくて時間が無く、第二に陳氏の拳は門外不出というのを知っていたため、一旦は諦めてしまいます。

 しかし武術への情熱は捨てきれず、楊露禅はちょっとした時間や深夜に、こっそりと陳長興の練習を盗み見ては自分で考え、内緒で練習する日々を続けました。

陳長興

 ところがこれは程なくバレてしまいます。練習の盗み見は武術の世界では非常に不道徳な大罪。この当時としては命に関わる大事でしたが、陳家溝での彼の暮らしぶり、人柄は広く認められており、陳徳瑚の取りなしもあって、ついに陳長興への弟子入りが許されます。

 念願の叶った楊露禅は猛烈に修行し、陳長興の教える術をマスター、十数年の修行を経てついに北京へと旅立ちます。

 北京では誰も彼に敵うものはおらず人々は彼を「楊無敵」とあだ名しました。そしてついには皇室の目にとまり、皇帝の子弟に護身術を教えるという栄誉を受けます。

 これにあたり、まさか皇室の歴々に自分が学んだような厳しい訓練をさせるわけにもいかないため、比較的楽な姿勢で、しかし重要な部分は失わないように改変したものを編み出し、教授しました。

 また、この時に楊露禅が「陳家の武術」ではなく、はじめて「太極拳」と名乗ったとも言われており、これが「楊氏太極拳」の成立であって、同時に「陳家の武術」から「太極拳」への転換点ともなった出来事でした。

◆ 五大太極拳の成立
 

 楊露禅によってはじめて陳氏の外に太極拳がもたらされ、これによって一気に普及が始まりました。

 河北省の人「呉鋻泉(ご けんせん)」は父親が楊露禅の弟子で、その父について太極拳を学び、その技を深く修めると自分の理想を加えてこれを改変し、「呉氏太極拳」を創始しました。

 同じく河北の人「武禹襄(ぶ うじょう)」は楊露禅に太極拳を学んだ後、河南省へ赴き、陳氏の外戚に伝わっていた「趙堡架式(ちょうほかしき)」を学んで創意工夫し「武氏太極拳」を創始しました。

 また、同じく河北省出身で形意拳(けいいけん)と八卦掌(はっけしょう)を学んでいた武術家「孫禄堂(そん ろくどう)」は武氏太極拳を学び、それまでに修めてきた武術とあわせて「孫氏太極拳」を創始し、ここに「陳」「楊」「呉」「武」「孫」の五大太極拳が揃うことになります。

 またほぼ同時期に、原型である陳氏の中でも大架式(だいかしき)と小架式(しょうかしき)が分かれ、小架式から趙堡架式(ちょうほかしき)や忽雷架式(こつらいかしき)が派生しています。

呉鋻泉
武禹襄
孫禄堂

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