◆ 皇帝の武術
宋の太祖趙匡胤(927~976)は、唐王朝の滅亡後に河南省開封(かいふう)市に首都をおいた王朝「後周(こうしゅう)」の皇帝に仕えた近衛将軍であり、後周の政治が乱れると、他の将軍達の推挙を受けて国を譲られ、分裂していた中国を統一し、以後300年にわたって栄えた宋王朝(日本にも多大な影響を与えました)の礎を築いた人物です。
先祖代々優秀な軍人の家系で、一説によれば漢民族ではなく突厥(とっけつ=トルコ系)の出身ではないかと言われています。
趙匡胤は他から推戴されて帝位に即いたことからわかるように、非常に人気のあった武将で、人格、軍略、個人の武勇共に大変優れていたと言われてます。
この趙匡胤が編み出した武術が「太祖拳(たいそけん)」であるとされています。
武術の伝承伝説には大袈裟な話がつきものですので、「皇帝が編み出した拳法」と言うのをそのまま事実と受け止めることは出来ないかもしれません。
しかし趙匡胤が優秀な武将であったことはおそらく事実ですので、彼の軍団で研究され、訓練されていた武術が後にまとめられ、宋太祖の伝説を付加されて広まったと考えることは出来るかもしれません。
◆ 梁山泊百八将の武技
我々の一門に伝わる伝説によれば、水滸伝(すいこでん)の英雄達がこの「宋太祖三十二勢長拳」の流れを汲む武術を修めており、梁山泊(りょうざんぱく)の首領である宋江(そう こう)の弟「鉄扇の宋清(そう せい)」が梁山泊108将のそれぞれの秘技を1つずつ教わり、まとめてひとつの武術とした、とされています。
さらにそれを108将の1人公孫勝(こうそん しょう)が書物にまとめ、薊州盤山(けいしゅう ばんざん)に至り、甥達に梁山泊の武術を伝えた。としています。
公孫勝から全伝を得た甥は官憲の追及を怖れ、盤山北少林寺で出家し「慶雲(けいうん)」と名乗ります。ここで北少林寺に太祖拳の系統の武術が伝わることとなったそうです。
この慶雲大師が北少林寺に伝えた武術こそが太祖神拳であり、北少林之拳、北派少林拳とも呼ばれた強力な実戦武術の来源であると言われています。
もっとも、水滸伝伝説自体が半ば以上架空の創作物ですし、公孫勝という人物も実在の可能性が無きに等しいと思われますので、この伝承は当然そのまま信じるわけにはいきません。
しかし、何らかの理由で太祖拳の系統を引く武術を修めた武将が北少林寺に辿り着き、そこで出家して武術を伝えたというのは事実かも知れません。
◆ 商派北少林拳
その後、北少林寺の中で代々伝承されてきたこの武術は、清代に武将「商士芝(しょう しし)」(1795~1880)が出るに至り、大きく発展を始めます。
商士芝(字:徳周)は薊州城西公楽亭の人で、幼い頃より武術を好み、十二歳で北少林寺に在家弟子として入山。
景礼(けいれい)大師に師事して苦練を重ね、奥義の全てを修めると、他人の推挙を得て宮廷の内衛士(ないえじ=皇帝親衛隊)として採用されます。
また河南省嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)の拳も学び、独自の工夫も加えてついに北少林寺の拳法をさらに一段高いレベルに引き上げました。
その武芸は凄まじかったと伝わり、井戸の底に向けて拳を打ち出すと、底の水が噴き上がったとか、離れた場所の相手を気合いだけで倒したとか、超人的な伝説が残っており少林拳の秘奥義「百歩神拳」を極めた達人として畏怖されました。
彼は俗人としてはじめて北少林之拳の正統継承者と認められ、彼の武術は「商派北少林拳(しょうは きたしょうりんけん)」とも呼ばれるようになりました。
清朝末期、中国が動乱の時代を迎えると、憂国の士であった商士芝は自分の武術を広く伝え、火器など強力な武器を持たない民衆に自衛の力を与えようとしました。
この武術は義和団(ぎわだん)などの武術結社にも伝わり、その強力な実戦能力から、広く研究され訓練されたと言われています。
◆ 河北大槍 李青
この動乱の時代にあって、商士芝の武術は、清朝の武将「李青(り せい)」(1886~1976)に引き継がれます。
河北省三河市段甲嶺の人李青(字:瑞臣)は父、李亞洲が通背拳の達人で、幼い頃より武術に抜群の才能を見せており、縁あって商士芝の閉門弟子(最後の愛弟子)となります。特に大槍の術に長けており「河北大槍」「神槍英雄」の異名をとって名を馳せ、清朝の皇帝親衛隊である「大内四品帯刀侍衛」の任に就き、紫禁城神武門(しんぶもん=北門)守護の将軍となります。
「槍をとっては及ぶ者なし」と言われた李青ですが、時代は武将にとって冬でした。
清朝が崩壊すると、自ら稼がねばならなくなり、李青は弟子を集めて傭兵団をつくって、河北一帯の商人や金持ちに雇われて店舗や旅の護衛をしました。
「河北大槍李」
と大書された彼の旗は国中の賊を震え上がらせ、どんな賊も決して寄りつかなかったと言います。
第二次世界大戦では、李青の弟子達が対日戦に活躍しました。
日本軍の猛烈な銃剣突撃に正面から立ち向かい、これに勝てたのは、李青の高位の弟子であった節振国(せつ しんこく)の率いた部隊だけだったと言います。
しかし節振国はじめ、これらの弟子達は皆戦いで命を落としました。
李青自身は大戦を生き延びましたが、次にやってきたのは文化大革命という大災厄でした。
古い文化を徹底的に否定、破壊した文革では、清朝の高位の将軍で有名な武術家であった李青は恰好の標的でした。
老いたとは言え李青ほどの武術家に直接手出しをする者はさすがにいませんでしたが、紅衛兵は「食べ物を得られないようにして餓死させる」という、極めて卑劣な手段で李青を追い詰めました。
彼を助ける者は紅衛兵によって一族共々ひどい目に遭わされるのがわかっていたので、誰もが見て見ぬふりをしましたが、彼の最後の弟子であった劉勝英(りゅう しょうえい)のみは夜陰に紛れて北京から天津まで自転車で通い、こっそりと食糧など生活に必要な品を届けていました。
しかし高齢と劣悪な住環境、十分ではない食糧によって李青は衰弱し、劉勝英に秘伝の全てを与えると1976年、ひっそりと息を引き取ったと言います。
このように伝え聞いていますが、少し困ったことがあります。
李青が商士芝に弟子入りしたのは1884年と伝えていますが、商士芝はこの4年前に亡くなったことになっています。そもそも李青は1886年生まれとなっていますので年代が合いません。
1884年は何かの間違いとしても、李青が商士芝の直弟子というのはどうしても無理です。
どうも、商士芝と李青の間に、実はもう一世代あったのではないかという気がします。そう考えると年代の辻褄はぴったり合います。
しかし、私が師から継承した系譜にはその「消えた一代」は存在しません。何故なのか?大人の事情なのか。このあたり武術の世界は突っ込むと怖い部分がありますので、ここでは触れずにおこうと思います。
◆ 中国軍最強特殊部隊教官 劉勝英
李青の最後の弟子にして正統継承者である劉勝英(1950~)は、満州族正黄旗、清朝第八代皇帝道光帝に連なる名家で、代々宮廷の近衛将軍を務める家系に生まれました。
遼東少林拳の使い手であり、時の皇帝光緒帝の親衛隊長であった祖父劉徳祥の紹介で6歳から「河北大槍」李青について武術を学び、天性の才能と人一倍の努力、師への真心によって商派北少林拳=太祖神拳の全伝を得るに至りました。
その経歴と実力が認められ、中国人民解放軍の最強部隊と言われる第38軍の特殊部隊格闘技教官や警察大学校の逮捕術教官の指導官を歴任。
1970~80年代には自分自身も現場に出て、合計千人を超える犯罪者や暴徒を捕縛しています。
また国家要人を警護するSPの育成に関わったり、スポーツ面では「散打(さんだ)」の競技の成立に関与、また張向紅など高名な選手を育成するなど各方面で活躍しました。
これらの功績から、現在第38軍の終身教官の栄誉をうけており、軍や警察などの実戦部隊から大きな尊敬を集めています。
劉老師には軍・警察・伝統芸能界を中心に多くの弟子がいます。
有名な弟子にはアクション俳優の于栄光(ユー ロングァン)、京劇俳優の張来京等がおり、廖理純は全国人民代表大会代表、中青聯委員であるなど共産党政府の要人もいます。
現在は掌門(しょうもん=家元)を蒋江文(しょう こうぶん)に譲り、ご自身は太祖神拳の故地、かつて北少林寺があった天津の薊州に道場をつくって少年達に伝統の武術を教えておられます。
松波龍源 寳幢寺僧院長
1978年 生まれ
2001年 大阪外国語大学外国部学部卒
2004年 大阪外国語大学大学院博士前期課程修了 修士(学術)
2005年 北京にて、周継革老師に入門
2006年~2007年 北京体育大学大学院導引養生センター高級進修生
2007年 北京国際武術大会優勝
2007年 北京武術太極拳大会推手の部65㎏級準優勝
2008年 陳氏太極拳 周継革老師に正式に拝師
2009年 太祖神拳 蒋江文老師に正式に拝師
2009年~ 北京市体育局 太祖拳研究会理事
北京体育局 弘武堂拳社理事
・頭と体と心がぎくしゃくして困っていた私にとって、心神武術アカデミーの教室は最高でした! 坐る瞑想も重要だと思うのですが、私のように「じっとしているのが辛い」「とにかく身体を動かしたい!」という人には、この武術教室を強くお勧めします。(30代男性)
・「身体を動かすのが好き」「スポーツが好き」という方全般にお勧めです。 現代のいわゆる「スポーツ」で主流になっている体の使い方も知りながら、太極拳、それも一番古いタイプの太極拳のベースになっている体の使い方を教えてくださるので、あらゆる身体動作に応用が効くと思われます。 何かスランプに陥ってるときの、解決の糸口にもなるのでは? (30代男性)
・武術としての太極拳に興味を持ち、いろんな道場に見学に行きましたが、この心神武術アカデミーの教室は、いろんな意味で非常に健全だと感じます。(40代男性)