陳氏太極拳

「最強」の系譜

正統陳氏太極拳

◆ 太極拳の起源説

 陳氏太極拳とは、よく知られた中国武術のひとつ「太極拳」という系統に属する伝統武術です。

 現在の「太極拳」はなにしろ巨大な門派ですので、その発祥伝説にも様々なものがあります。

 よく知られているものでは、仙人の「張三豊(ちょう さんぽう)」によって武当山(ぶとうざん)で編み出された。と言うものでしょう。

 これは伝説の仙人「張三豊」が、はじめ嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)で修行し、後に道教の聖地「武当山」に籠もって太極拳を編み出した。と言う筋書きのもので、話として面白いため小説やテレビドラマ、アクション映画等として繰り返し流布されています。

 そのせいで中国人の中でも結構信じている人が多い説ですが、そもそも張三豊自体が実在したかさえ定かではなく、歴史的事実として考えるには無理のある説です。現時点では全く裏付けのない「おはなし」の類と見るのが妥当でしょう。

 その他にも
 嵩山少林寺の「内功」を重視する武僧が山を下りて指導した。
 四川省の仙人が編み出した。
 武当山の道教の修行から派生した。
 etc…

 実に多様な伝説が流布していますが、現在歴史的な事実として最も確実視されているのは、

「河南省温県(かなんしょう おんけん)の陳家溝(ちんかこう)という場所で、陳王廷(ちん おうてい)という武将によって『陳家の武術』がまとめられた。」
「陳家の武術を楊露禅(よう ろぜん)が学び、首都北京に出て『太極拳』と名乗った」というものです。

◆ 陳家溝の陳氏一族

 1372年、明の洪武帝五年。勢力の衰えた元朝にかわって、洪武帝(こうぶてい)こと朱元璋(しゅ げんしょう)率いる明王朝が中国を支配していました。即位からまだ五年で政情は不安定、旧王朝である元との戦いで敵味方に分かれていた中国国内の安定が急がれていました。

 現在の陳家溝、河南省温県のかつて常陽村と呼ばれていた一帯は、この争乱で元朝側に与し、洪武帝の怒りを買って村ごと皆殺しにされた場所でした。

 朝廷はこの場所に、難民の多かった山東省から移民を入れることを決定します。

 

明太祖 洪武帝

 この移民団の中に後に陳氏の始祖となる「陳卜(ちん ぼく)」という青年がいました。彼は文武に優れ、困難だった旅路や入植後すぐの混乱の中、移民団のリーダーとして活躍します。

 やがてその一帯は陳卜の家を祖とする陳姓の人々とその縁者が居住する地域「陳家溝」と呼ばれるようになりました。

 そして時は流れ、1600年頃に陳氏第九世「陳王廷」が出るに至ります。

◆ 武将 陳王廷

陳氏九世 陳王廷

 陳氏第九世、陳王廷は幼い頃より人柄優れ、長じては人望篤い文武両道の英雄的人物として名が知れ渡るほどの傑物でした。

 ついにその名は都にまで届き、文官を登用する「科挙(かきょ)」に対して、武官登用の試験である「武挙(ぶきょ)」を受験するよう推薦されるに至ります。

 この「武挙」で大変優秀な成績を上げ、宮廷武官に就任した陳王廷でしたが、明王朝も末期、もはや腐敗の極みに至っていた朝廷では、田舎から出てきたコネクションのない者の高官就任は歓迎されませんでした。腐敗役人のやっかみを買った陳王廷は陰謀に嵌められ、危うく殺されるところを脱出したのでした。

 河南省登封県玉帯山に拠った陳王廷は、明朝末期の社会的混乱で各地に山賊匪賊が大量発生する中、河南から山東省にかけて私軍を率いて治安維持にあたり、その一帯の賊は彼の名前を聞くだけで震え上がったと言います。その武勇に加えて、美髭と得物の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)のイメージから「関羽の再来」と呼ばれ、名将として名を馳せました。

 支配王朝が明から清に交代し、各地に清の正規軍が進駐してくるに当たって、陳王廷は故郷の陳家溝に帰り、代々伝わっていた家伝の武術に、自分かこれまでに学んだ武術、さらに漢方医療の知識や、導引気功術(どういんきこうじゅつ)、道教の哲理などを組み合わせ、村と一族をまもるための新しい武術として「陳家の武術」を作り上げたのでした。

 はっきりとはわかっていませんが、この「家伝の武術」とは河南省陳氏の始祖、陳卜の出身地である山東省に伝承する通背拳(つうはいけん)、「自分が学んだ武術」とは、対倭寇で名を馳せた名将「戚継光(せき けいこう)」の武術である「戚家拳(せきかけん)」に関係する流派であると考えられてます。また、彼が根城とした玉帯山とは、少林寺がある嵩山と同一の山系であるため、いわゆる「少林武術」からも何らかの影響を受けている可能性があります。

 この「通背拳」や「戚家拳」は共に「北少林拳(きたしょうりんけん)」の影響を強く受けている可能性が非常に高い流派です。特に「戚家拳」は「太祖神拳(たいそしんけん)」と密接な関わりがあると考えられていますので、これらのことから、陳氏太極拳の源流は北少林寺、太祖神拳系統の武術にあると考えることが出来ます。

風光明媚な玉帯山
◆ 陳氏一族の拳


 陳王廷が編み出し、一族に教えた武術はじつに強力なものでした。

 広大な国土と厳しい気候状況を持つ中国では、災害などにより飢饉が発生すると、集落ごと山賊化して隣村を襲ったり、隊商を狙ったりと言うことが頻発し、またそれ以外にも常時専門の強盗団が各地を跋渉していました。

 そのため、長距離を移動する隊商などは、お金を出して雇った護衛の傭兵を連れて行くのがほぼ常識となっており、それら傭兵は今で言うマネジメント企業のようなものに所属していました。

 武術を修めた陳氏の一族はこの傭兵団の戦士として高名になり、村自体がその管理会社として機能するようになっていました。

 隊商を待ち構える山賊も、その隊についているのが陳氏の一族と知ると、決して手を出さなかったと言います。

 言うなれば、この頃の「陳家の武術」は現代で言うところの戦略兵器に近いものがあり、核兵器や潜水艦、ステルス戦闘機等の技術が最高機密であるように外部には固く秘密とされ、練習しているところさえも見せることがない、極秘の術として一族にだけ伝承されたものでした。

◆ 陳長興と楊露禅

 1800年代前半、河北省の人「楊露禅(よう ろぜん)」は幼い頃より武術を好み、なんとか、どこかの名人に習いたいものだと願っていました。しかし家は貧乏で、武術など教えてもらう余裕もなく、仕方がないので店の丁稚として働くことになります。

 このとき彼がたまたま働くことになった薬店の店主が、河南省温県陳家溝出身の陳徳瑚(ちん とくこ)でした。

 陳徳瑚は、まじめ、誠実で賢い楊露禅の人柄を見て気に入り、陳家溝で薬を販売する仕事を言いつけます。

楊露禅

 そこで、当代一の使い手「陳長興(ちん ちょうこう)」に出会った楊は深く憧れ、彼のもとで修行したいと思いますが、第一に仕事が忙しくて時間が無く、第二に陳氏の拳は門外不出というのを知っていたため、一旦は諦めてしまいます。

 しかし武術への情熱は捨てきれず、楊露禅はちょっとした時間や深夜に、こっそりと陳長興の練習を盗み見ては自分で考え、内緒で練習する日々を続けました。

陳長興

 ところがこれは程なくバレてしまいます。練習の盗み見は武術の世界では非常に不道徳な大罪。この当時としては命に関わる大事でしたが、陳家溝での彼の暮らしぶり、人柄は広く認められており、陳徳瑚の取りなしもあって、ついに陳長興への弟子入りが許されます。

 念願の叶った楊露禅は猛烈に修行し、陳長興の教える術をマスター、十数年の修行を経てついに北京へと旅立ちます。

 北京では誰も彼に敵うものはおらず人々は彼を「楊無敵」とあだ名しました。そしてついには皇室の目にとまり、皇帝の子弟に護身術を教えるという栄誉を受けます。

 これにあたり、まさか皇室の歴々に自分が学んだような厳しい訓練をさせるわけにもいかないため、比較的楽な姿勢で、しかし重要な部分は失わないように改変したものを編み出し、教授しました。

 また、この時に楊露禅が「陳家の武術」ではなく、はじめて「太極拳」と名乗ったとも言われており、これが「楊氏太極拳」の成立であって、同時に「陳家の武術」から「太極拳」への転換点ともなった出来事でした。

◆ 五大太極拳の成立
 

 楊露禅によってはじめて陳氏の外に太極拳がもたらされ、これによって一気に普及が始まりました。

 またほぼ同時期に、原型である陳氏の中でも大架式(だいかしき)と小架式(しょうかしき)が分かれ、小架式から趙堡架式(ちょうほかしき)や忽雷架式(こつらいかしき)が派生しています。

 河北の人「武禹襄(ぶ うじょう)」は楊露禅に太極拳を学んだ後、河南省へ赴き、陳氏の外戚に伝わっていた「趙堡架式(ちょうほかしき)」を学んで創意工夫し「武氏太極拳」を創始しました。

 同じく河北省の人「呉鋻泉(ご けんせん)」は父親が楊露禅の弟子で、その父について太極拳を学び、その技を深く修めると自分の理想を加えてこれを改変し、「呉氏太極拳」を創始しました。

 また、同じく河北省出身で形意拳(けいいけん)と八卦掌(はっけしょう)を学んでいた武術家「孫禄堂(そん ろくどう)」は武氏太極拳を学び、それまでに修めてきた武術とあわせて「孫氏太極拳」を創始しました。

ここに「陳」「楊」「武」「呉」「孫」の五大太極拳が揃うことになります。

武禹襄
呉鋻泉
孫禄堂
武禹襄
呉鋻泉
孫禄堂
◆ 近代の太極拳


 20世紀に入ると伝統武術にも国家や政治と言った問題が絡み始めます。

 列強や日本との戦争により、軍の強化と国民のアイデンテティのよりどころとして、武術は重視され「国術」と呼ばれるようになっていきます。

  やがて、各地に政府や軍閥勢力による武術学校が建てられ、各流派の名人が集められました。大きなものでは南京中央国術館(八極拳の馬英図、等)や上海精武会(秘宗拳の霍元甲、等)などが挙げられます。

 これらは高名な使い手を集めて生徒を指導し、また実際の軍用の役に立つ武術の研究を行うものでした。太極拳の流派からは孫禄堂、陳照丕が南京中央国術館に、呉鋻泉が上海精武会に関わっています。

 このように伝統的な方法(血族や内弟子)とは違う形での伝承が行われたので、武術各派の普及には大きく貢献したものの、現在に至るまで流派名称や本末関係等、流派の歴史や系統に関する理解に混乱をきたす元凶ともなっています。

◆ 「拳聖」陳発科

 

 またこの時期、陳家溝から当時最高の使い手で拳聖とも呼ばれた「陳発科(ちん はっか)」が北京に招かれ、はじめて陳氏最高峰の秘技を外部に伝授しました。これによって、ほぼ楊式系の独壇場であった河北エリアに正式な陳氏太極拳が興隆することになりました。

 当時「北平」と呼ばれていた北京では、陳氏の一族で陳発科の弟子であった陳照丕(ちん しょうひ)が教えていましが、上記の通り南京中央国術館に請われて赴任することになり、師であり叔父であった陳発科に北京の自分の弟子達への指導を依頼します。

「拳聖」陳発科

 これを受けて陳家溝から移住した陳発科は「陳氏最高峰」の名に恥じぬ実力と、誰からも愛され、尊敬される高貴な人柄を発揮し、北京エリアへでの陳氏太極拳の普及に貢献します。

陳発科

 現在北京周辺に伝わっている陳氏系統の武術のほぼ全てが、この陳発科に来源を有するものですし「強力無比、最強の武術」といった陳氏太極拳のイメージは主に陳発科の功績に依るところが大きいものと思えます。

 陳発科が北京に出てしまったことによって、陳家溝では逆にやや勢いが衰え、後に陳照丕や陳発科の実子である陳照奎から伝授を受け直したりしています。

 また、陳氏太極拳の伝承系統と套路名称について、この頃に混乱が起こっており、学習者の理解を妨げる要因になっています。

◆ 陳氏太極拳の系統

 中国武術では基本的に「套路(とうろ)」という、日本武道で言えば「カタ」に当たるものの練習を基礎とし、その「套路」にはさらに「架式(かしき)」という下位分類が存在します。

 「架式」は基本であるが故に、その風格や内容が練習を進める上での極めて大きな意味を持つものになっています。言ってみればこの「架式」こそが流派そのものだとすることが出来るでしょう。

 上記の「陳発科」の系統に連なる流派は現在「新架式」と呼ばれていますが、この伝承者達は皆、新架式と呼ばれているものこそが最も古く正当な「陳家の武術」である。と言います。

 何故、最も古いものが「新」架式なのでしょうか。

 元来「陳家の武術」は今で言う「大架式」を基本とするものでした(この頃はまだ「大架」という名前は無かったようですが)。

 1800年代初頭に陳氏一族に陳有本・有恒という兄弟の名手が出て、彼らの工夫によって(今で言うところの)「小架式」が誕生しました。この頃は、古来のものに対して新しくできた、という意味で「新架式」と呼ばれていたようです。これが混乱の第一歩です。
 また、本来の古伝であった(今で言う)「大架式」にも、秘中の秘として一族の中でもごく限られた名手にしか伝えられなかった部分があり、その秘技を隠したものと、秘技を盛り込んだものとが存在したといいます。

 この説に則れば、この時点で「(一般向けの)大架式」「(秘密の)大架式」「(新架と呼ばれていた)小架式」の3種があったことになります。

 この状況を変えたのが20世紀初頭、前述の「拳聖」陳発科の北京赴任でした。

 陳発科が北京に出向く前は、彼の甥であり弟子であった陳照丕が北京で「(一般向けの)大架式」を伝授しており、また(今で言う)「小架式」の系統の弟子達が各地で教えたりしていて、かつては秘密のベールに包まれていた陳氏太極拳も、この頃では有力な流派として認識されていました。

 陳発科は北京で、それまで一族の中でも極秘であった「(秘密の)大架式」を、はじめて外部に披露、教授し、これに対して人々は「新しい形=新架式」と呼び習わしました。

 これによって、それまで「新架」と呼ばれていたもの(今で言う小架)は、その動きのコンパクトで鋭い特徴を以て「小架」と呼ばれるようになり、陳発科が教える以前から知られていた「大架」の形は、昔からあったと言う意味で「老架」と呼ばれるようになりました。

 しかし陳発科自身は「新架」とは呼ばず、あくまで「家伝の拳」「陳氏の拳」と呼んでいたといいます(現在でも陳発科直系の孫である陳瑜老師は「新架」と言われることを嫌います)。

 このあたりは諸説あって確定しがたいところですが、多くの伝で「はじめて陳氏以外の者(楊式太極拳の祖、楊露禅)に教授したことで知られる陳長興が『老架式』を制定した」とされていることから、外部に教えることがあったのは「(一般向けの)大架式」=(今で言う)「老架式」であった、と考えることが出来ます。

 限られた使い手のみに伝授され、外部に教えたことがなかったという「(秘密の)大架式」=(今で言う)「新架式」が本来の「陳家の武術」である、という陳発科系統に伝承されている説も、理屈的にはありえるかなと考えられます。

◆ 国家規定拳の成立と文化大革命


 第二次世界大戦とそれに続く国共内戦が終わり、共産党が政権を握ると、指導者毛沢東は健康体操としての太極拳の効能に注目し、国家プロジェクトとしてこれを進めます。

 もっとも普及していて、比較的練習しやすい楊式をベースにいくつかの国家制定套路が作られ、国民に推奨されました。今でも最も普及している太極拳と言える「簡化二十四式」などがこれに当たります。

 そして悪名高い「文革」がやってきます。伝統文化を「悪」と決めつけ、徹底的に排斥した文化大革命では優秀な武術家も大勢犠牲になりました。たとえ死に追いやられずとも、学ぶことも教えることも出来ず、武術の命脈は絶えたも同然になったケースがたくさんあったようです。陳氏太極拳の一門では、将来を期待された陳発科の長男「陳照旭(ちん しょうきょく)」が殺されています。

◆ 競技太極拳の興隆

 文革が終結すると、各方面で文化の見直しが行われ、武術は健康運動としての他、近代的スポーツ競技の1つとして復興を遂げます。

 各地の体育系大学を中心に、国家レベルのプロジェクトとして、各流派の套路の整理と標準化が図られ、指導者ごとにばらばらだった形そのものから価値観まで統一が図られました。

 それまではある種秘密結社的な、極めて固く閉じられた世界のものか、あるいは軍事技術として一般人からは遠い存在であった武術が、標準化され解放されて、誰しもが楽しめる「スポーツ」の1種目となったという点で、大変に大きな出来事だったと言えます。

 これにより武術は採点競技として、あるいは「散打(さんだ)」「推手(すいしゅ)」といった格闘競技として人気を博し、大学に専門の学部も出来るなど大な変化を迎えました。またブルース・リーをはじめジャッキー・チェンやジェット・リー等による武術映画のヒットなどによって国内のみならず世界中から注目を集め、まさに中国の国民的文化として広く受け入れられるようになりました。

 特に太極拳はその名声に加え、套路のバリエーションの多さ、動きがゆっくりで飛んだりはねたりが少なく、どんな体力状況の人でも割合気軽に始められること、確かな健康効果、等が評価されて、圧倒的な人気を誇ります。

 一方、不遇な時代の長かった伝統武術の世界も、文革を生きのびた民間の伝承者達によって命脈は繋げられ、現代でも数こそ少ないもののしっかりと受け継がれているようです。

◆ 陳発科の後継者たち

 伝説の達人陳発科には多くの弟子がいましたが、陳照丕(甥)、陳照旭(実子)、陳照奎(実子)、潘詠周、王鶴林、洪均生、沈家楨、雷慕尼、顧留馨、馮志強等が特に高名です。

 この中で、長男の陳照旭は文革で殺されますが、その子である陳小旺(ちん しょうおう)老師は現在も高名な武術家として活躍されています。最後の内弟子であった馮志強(ふう しきょう)老師は独自の研究を加えて「混元太極拳」を創始、世界中にお弟子さんがいます。

陳照奎

 陳発科の正統を継いだのは、実子の陳照奎(ちん しょうけい)でした。陳照奎老師は伝説の人であった父に劣らぬ実力を身につけ、さらには武器術の研究も深く進めて独自の境涯に達し、特に関節技である「擒拿(きんな)」に関しては百発百中の神業と称されました。

馮志強

 文革中は不遇で、兄である陳照旭のように殺害されることは免れましたが、バスの切符切りなどをしながら秘密に修練を行っていたといいます。文革が終結すると、活発に伝授を行い、現在高名な陳氏太極拳の老師達のほとんどが陳照奎師の教えを受けています。

 文革時の悲惨な体験からでしょうか、武術の伝統を絶やさぬようにとの思いが強く、自分の体調など二の次に考えて精力的に全国を教えて廻り、ついには不調をおして出向いた出張先で亡くなるという悲劇的最期を遂げておられます。

◆ 現代の伝承者
陳瑜大師

 現在北京では、陳照奎の実子である陳瑜(ちん ゆ)大師が活躍しておられ、陳発科正伝の風格を伝えておられます。

 套路の表演は重厚正確で、祖父、父親譲りの推手、擒拿の実力は圧倒的なものがあります。

 また、陳照奎の弟子であった馬虹(ば こう)、陳家溝では陳小旺(ちん しょうおう)、陳正雷(ちん しょうらい)、王西安(おう せいあん)、朱天才(しゅ てんさい)など、陳発科、陳照丕に連なる老師達がご活躍です。

馬虹
陳小旺
陳正雷
王西安
朱天才
馬虹
陳小旺
陳正雷
王西安
朱天才

 心神武術アカデミーには陳瑜老師の「大弟子(最高位の弟子)」である周継革(しゅう けいかく)老師を通じて、この陳発科正伝の系譜が継承されています。 

周継革老師
周老師と龍源師

講師:松波龍源

松波龍源 寳幢寺僧院長

1978年 生まれ
2001年 大阪外国語大学外国部学部卒
2004年 大阪外国語大学大学院博士前期課程修了 修士(学術)
2005年 北京にて、周継革老師に入門
2006年~2007年 北京体育大学大学院導引養生センター高級進修生
2007年 北京国際武術大会優勝
2007年 北京武術太極拳大会推手の部65㎏級準優勝 
2008年 陳氏太極拳 周継革老師に正式に拝師
2009年 太祖神拳 蒋江文老師に正式に拝師
2009年~ 北京市体育局 太祖拳研究会理事
北京体育局 弘武堂拳社理事

体験者の声

・頭と体と心がぎくしゃくして困っていた私にとって、心神武術アカデミーの教室は最高でした! 坐る瞑想も重要だと思うのですが、私のように「じっとしているのが辛い」「とにかく身体を動かしたい!」という人には、この武術教室を強くお勧めします。(30代男性)

・「身体を動かすのが好き」「スポーツが好き」という方全般にお勧めです。 現代のいわゆる「スポーツ」で主流になっている体の使い方も知りながら、太極拳、それも一番古いタイプの太極拳のベースになっている体の使い方を教えてくださるので、あらゆる身体動作に応用が効くと思われます。 何かスランプに陥ってるときの、解決の糸口にもなるのでは? (30代男性)

・武術としての太極拳に興味を持ち、いろんな道場に見学に行きましたが、この心神武術アカデミーの教室は、いろんな意味で非常に健全だと感じます。(40代男性)

スケジュール