11月22日「リアウェアネス」シェア

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*最終更新11月28日

日本仏教徒協会が開催いたしました令和2年11月22日「リアウェアネス」入門講座を御受講頂きました皆様からの質問、コメント等と講師の回答をシェアします。

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短い時間に体の輪郭を忘れて物質のない世界にいったような不思議な感覚があり、すぐに元に戻るのが惜しく思いました。 俯瞰の視点なのか分かりませんが、現実と思っている所とそうでない所とを行き来するような。 垣間見させていただきました。

とても良い感覚だと思います。密教瞑想は「体感・感じる」と言うことが重要です。そのような体感の蓄積が潜在意識を変えていきます。

そして同時にそのような「体感・体験」に執着しないと言うことが非常に重要なポイントです。「何か凄いことをしている!」と言うような意識は多くの場合エゴを強化してしまいます。様々なことを感じながら、すべては空性より縁起することであると、どこか突き放して観ているのが良いと思います。

瞑想といっても幅広く、混ぜてはいけないということでしたが、混ぜずに、水泳の後にジョギングするといった形で、複数別のものとして取り組むのは問題ないでしょうか?

「別のものである」と理解して、様々なものに取り組むのは良いことだとおもいます。

ただ、もし「深めていこう」と言うことであれば、どこかの時点で何か一つを選び取っていくべき時が来るでしょう。「あれもこれも」というのは浅いレベルではともかく、深いレベルになってくると両立できないと言うことがほとんどです。

スポーツにたとえると、マラソン選手と格闘技の選手は、基礎的な部分では共通する身体能力、トレーニングがあるでしょうけれど、トップ選手となってくると必要な身体能力が全く異なってきます。何かがトレードオフになるでしょう。

その意味で、自分が「これだ!」と思えるものに出会うまでは幅広く、「これ!」と決めたらその道を、余所見をせずに行くのがよろしいかと思います。

瞑想に入る前の激しい呼吸は、力むとか考えず、とにかく全力でということでしょうか?私は、あまりきつい感覚がなかったのですが、全力を出せてないということでしょうか。

導入の呼吸は何も考えずに全力でするのが良いです。体にきつさが感じられないのは個人差があると思いますので、もう少し回数を多くしてみるか、一回あたりの吸排気量を増やす意識をしてみるか、実験してみると良いと思います。

と言って、これは「うまく瞑想状態へ入るためのちょっとした補助技術」ですので、必須ではありません。気になって却って良くないようであればしなくても問題はありません。また慣れてくれば簡単にできるようにもなるとおもいます。

指をケガしていて、いつもではないですが、ハチに刺されたような痛みに見舞われます。その時は、人との会話も辛くなります。 そういったときに、龍源さんが説明くださった患部を意識するのは怖いような気がします。私がやってるのは患部を気にしない、別のことをする例えば歌を歌って誤魔化すとか反対のことだったので。訓練を積めば、強い痛みにも対応できるのでしょうか?

恐怖感があることは基本的にやらない方が良いです。密教瞑想は潜在意識を使いますので、恐怖感や不快感はバッドトリップに繋がって良くありません。

もし、怖さを乗り越えられるようであれば「痛い部分のその中心はどこだろう」と探しながら、「痛みという意味情報」が素粒子化した身体の隙間に散っていくようなイメージをとると、痛みそのものが消えていく場合もあるはずです。可能であれば試してみてください。

深く入れば麻酔なしで外科手術をして平気という話も聞きます。

リラックスしようとすると瞑想中に寝てしまうことがあるのですがどうしたらいいでしょうか?

リアウェアネスは睡眠状態と覚醒状態のギリギリ境界線を攻めていくような技術ですので、寝落ちするのは普通のことです、気にすることはありません。眠っていたのか、いややはり起きていたのか、よくわからないという状態が最も良い状態だと考えています。

もし寝不足など、寝てしまう要素がある場合には寝てしまって悪いことはありません。寝不足など無くても集中力が散漫になる寝てしまうことが多いです。その場合は「自分の精神力はここまでなんだな」と思って、集中が維持できる時間を長く出来るよう訓練してみましょう。

といって、歯を食いしばって集中力を維持しようというのはよくありません、脳にダメージを与えます。しんどくなったらやめる。これは大切なポイントです。

瞑想中に身体を光の粒の集合体のようなイメージはできるのですがその姿を客観的に見るということがあまりできません。視点は上から自分を見下ろすようなイメージでしょうか?

「見る」というよりは「そのような自分を感じる」と言うイメージでしょうか。視点などもあまり考えずに、ただただ「そのようである自身を感じる」のが良いです。

「どんな見え方だろう」「視点はどこだろう」というのは顕在意識が言語で考えてしまっています。そのような意識状態から離れる訓練をします。その為には脱力して、意識が少し朦朧とした、夢見のような状態に入る必要があります。

瞑想の種類、哲学などが短い時間で纏められてわかりやすかったです。

ありがとうございます。今回お伝えできたのはほんの導入部分のみです。ご興味を持って頂けましたらさらに深めて頂けると、密教瞑想の真の奥深さ、意義がご理解頂けるものと確信しています。

瞑想は好きで何種類かテクニックは知っているのですが、混ぜたら危険というのも、よくわかりました。本質がぶれるというか目的主旨が違う所は混ぜようが無いよなと理解しました。違っていたらすみません。

正確にご理解頂けましたようで嬉しく思います。

伝統ある思想哲学、そして技術というものは、膨大な数の先人達が、膨大な時間をかけて編み出し「時間」という研磨を受け続けてきて今に残されているものです。我々程度の個人が考えつくようなアレンジ、思いつきは、もうほぼ全て試し尽くされていると、学べば学ぶほどに感じます。

実技中、小2の次女が入室。そのあと、旦那さんまで部屋に入ってきて、いきなり修行状態に入りましたが「何処でも、どんな状態でも出来る」という言葉を信じて、観察者に徹していましたら、感情に途切れさせられる事なく出来た自分を褒めたいと思いました。

素晴らしいです(笑

現代の我々の生活では、いわゆる「良好な修行環境」など望むべくもありません。だからといって「環境がないから出来ない」というのは非常に格好が悪いと思います。どこだって出来る、どんな状況でも出来る。それが本当に「出来る人」だとおもいます。

密教にはその「強さ」があると思います。こだわらない気持ちこそ、修行で身につけるべきものですので、とても素晴らしい修行をなさったと思います。

生活の中に取り入れたいと思います。個人的には細胞1つ1つが光の粒になる感覚が涙が出そうなくらい感動的な光景でした。

真言密教の教えに依れば、自分自身を含めて、万物の根源は純粋な光です。

特に「自分自身」の本質が光であると見ることは肝要で、それを体感するために様々な技術が用意されていますし、密教の修行で体感される様々なことは、哲学的世界観を「実感」するためのものです。その「体感」を「瞑想」という特別な枠内に押し込めるのではなく、まさに当たり前の日常生活に活かし出してこそ、釈尊や弘法大師が遺してくださったものの意味があるというように感じています。

吸った時に前から後ろ、吐いた時に後ろから前に靄が抜けるイメージした場合、せっかく後ろに抜けたのが戻って来てしまったイメージになって上手くいきませんでした。初めてだから何度もやってみたいと思います。ありがとうございました。

人それぞれイメージの持ち方はあると思いますので、こだわることは無いと思います。一回ごとに自分から出た黒煙が浄化されて消えてしまうイメージが持てると良いですね。

ある意味、この基礎編の部分は基礎であるが故に実践も難しい部分だと思います。中級、上級になってくると、また別の困難さはありますが、基礎編でやっている部分はずいぶん楽になると思います。

中級編以降は本尊を定めて本尊のイメージの力を借りながら進めていくようになりますので、浄化のイメージはとりやすくなります。

初めて瞑想を体験いたしました。自分を客観的に見るということ、細胞の中を風が吹き抜けるなど、とても興味深かったです。

ありがとうございます。「呼吸を観察せよ」「自己を客観視せよ」とは多くの瞑想指導者が言うところですが、実際に「どう『観察』がなされるべきか?」を正確に伝えているところは少ないようです。

意識と身体感覚が分離すると言うことが肝心です。あとはそこから得られた「観察」の結果=「客観的体感」を執着せずに眺めている訓練です。それが出来るようになると、どんな状況でも瞑想状態が維持できるはずです。