11月9日仏教講座問答集

日本仏教徒協会が開催いたしました令和2年11月9日仏教講座『「歩く人は歩かない」中観哲学』の中で、受講者の皆様から頂きました質問に、講師がお答えした問答集を公開いたします。

この講座は、ポッドキャスト番組「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」ファンコミュニティの皆様との関係の中生まれた企画です。
是非「コテンラジオ」をご視聴ください。

コテンラジオオフィシャルサイト
https://cotenradio.fm/

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Q仏門に入られたきっかけは何ですか?

Q龍源さんは苦しみから逃れるために悟りたくて、真言の世界に入ったんですか?それとも、知りたいという興味にかられて入られたのですか?良ければお教えください。

A私はお寺の生まれではなく、ごく普通の一般家庭の出身です。幼い頃から神話や伝承など文化人類学に興味があって、大学ではミャンマー仏教の儀礼を研究していました。そういう意味では、宗教文化に興味はあったけれど、別段に「救われたい」とか、そういう「信者」的な関心はありませんでした。

しかし、学生の頃に家族の問題を始め、いろんな人間関係のトラブルに見舞われ、心が壊れてしまったとき、思いがけず「研究対象」であった仏教に救われてしまった。と言う体験がありました。ある種の「小さなさとり」のようなものを体験して、心が苦しみから解放された実感がありました。その時から「この凄い力を秘めた仏教が、どうして日本ではこんなに威力を発揮していないんだろう?こんなにたくさんお寺があって、とても古い伝統を誇っているのに、なぜ役に立っているように見えないんだろう?」「私は、仏教の本当の力を発揮させて、自分と同じように心が苦しくてつらい人々を救いたい」と思うようになりました。

真言宗の僧侶になったのも「たまたまのご縁」で、特に望んで選んだわけではありません。しかし、結果的に私に最もフィットするのは真言宗、弘法大師の系譜だったなと感じています。不思議な導きの力を感じます。

Q龍源さんは密教以外の様々な分野を活用して、密教の解明に努めておられますが、他分野を活用しようとしたきっかけは何でしょうか?

Aまず第一点としては、私はかつての祖師たちほど頭脳が優れているわけではありませんので、仏典を読んだだけではさっぱり理解できないことが多いです。しかし、物理学や数学、大脳生理学、言語学そして武術など他分野の知見に触れたときに「あぁ、これは!?」みたいな閃きが得られる体験が多々ありました。ですので、仏典に書かれていることは知っていなければならないとして、それを現代的に再評価する方法として幅広い知見を利用するのが良いなと感じている次第です。

もうひとつは、ありがたいことに優秀な医師や科学者、武術家等の仲間がたくさん助けてくれることです。自分自身が仏典を読んでわからないところに、日頃の雑談の中で科学者の仲間がヒントをくれることが多々あります。まともに勉強していたのでは到底無理な知識の集積とその運用を、友人達がやってくれるというのはこんなに恵まれたことも無いと思います。ありがたいことです。

その前提として、私自身がオカルトな世界観、また伝統権威絶対主義のお堅い世界観を持っていないというのが大きいと思っています。私は基本的に、すべて科学的アカデミズムに基づいて考察され、検証を受けるべきと考えています。仏教者には「ともかく伝統説絶対墨守」「ともかく神秘主義」な人たちも多く存在しています。

そうなると、せいぜい江戸室町くらいまでの祖師たちの言説教説から一歩も出てはならないこととなってしまいますし、神秘主義者であれば何でもかんでも「神仏の力」で終わらせてしまう事となります。実際そういう人は少なくないです。もったいないと思います。

Q具体的に瞑想のやり方はどんなのでしょうか?

Aこれについては秘伝、口伝の部分もありますので、ここでは憚られます。

瞑想と一口に言っても、仏教系とそれ以外、仏教の中でも上座部系、大乗系、密教系と様々な系譜があります。それぞれに目的も違えば手段も異なります。

密教系は、呼吸のコントロールを中心的な技術として脳の状態を変化させ、シンボルやイメージという手段を使って潜在意識を調整するという方法をとります。

Q仏教の本質がみんなに伝わって、世界が一体感に満ちた時、龍源さんは何をしますか??

Aもしも生きとし生けるものがすべて真実の安寧を得る事ができたとき、私や仏教の役割は終わっていますので、その安らぎの光の中で静かに消滅できればと思います。

Q瞑想は師匠がやはり必要なんでしょうか?どうみつければいいんでしょうか

Q先ほど瞑想についての質問で、「一人で瞑想するのは危ない」と仰いましたが、その理由は具体的にどういったものでしょうか?

A瞑想には様々な種類方法があって、独学独習でも良いものもあると思います。しかし、密教系など一部の方法では、潜在意識、脳の状態に対するかなり強力なアプローチ技術を使いますので、知識不足での実習は危険を伴います。

潜在意識を操作すると言うことは、一歩間違えば「洗脳」「自我崩壊」につながります。一部のカルト宗教などは密教系の瞑想技術を悪用して信者を洗脳しているということもあるようです。そういう意味で、独習は危険ですし、師匠もよくよく吟味する必要があります。

良い師匠に出会う方法としては、まず自分自身が「良い動機」を堅持することが必須です。
「なんか格好いいから」とか「超能力が得られるのでは?」と言うような動機を持っていると、獲物を狙っているカルト教団や詐欺師達の格好の餌食になります。求める動機と得られる結果は、往々にして釣り合うものです。

我利我利の欲は相手を見る目を曇らせます。動機は「興味」程度のものでも構わないと思いますが、その「興味」の質を高く保って、清潔な目で指導者を探してください。その上で、できるだけたくさんの伝統、指導者に触れたら良いと思います。自分に合うものが見つかるまで、何も決めつけずに広く師を探すのは素晴らしいことだと思います。

Q「幸せを求める=執着」のイメージがありますが、幸せを求めることは空の思想に反しないのですか?

Q現実と自分が思い込んでいる世界の捉え方を変えるというのが空の思想を得るということかと思うのですが、目標を持ったり何かを得たいと願うことは相反しないのでしょうか?

A仏教の本質は「真の幸せ、安寧に生きる」と言うことにあると思います。人間一般の欲望・執着は、大体の場合においてこれに反する結果を導きます。ですので「執着の断絶、欲望の制御」ということがクローズアップされますが、その裏として「真の幸せ、安寧の追求」という欲求は推奨されています。

特に密教では、個人による個人的な満足を求める心を「小欲」といって排撃しますが、個人を超えた生きとし生けるもの全体の幸せを求める心は「大欲」と称して大いに推奨しています。

凡夫の戯論によって認識された「誤った世界認識」による欲求は、ほぼ間違いなく「苦」をもたらします。しかし聖者のさとりから導かれる世界認識は「苦」を生まず「楽」を発生させます。

ですので「空」の直観によって「戯論」の世界を、一旦は完全崩壊させて聖化する必要があると考えます。その過程において、あらゆる欲や執着は否定されますが、空性に還元された後に再び立ち直ってきた「聖化された世界」ではあらゆるものが肯定されます。

凡夫である我々が行うべき修行は「戯論の世界の止滅」ですので「欲、執着の否定」が強調されるのは当然なのですが、ここに囚われすぎるとわけがわからなくなってしまう危険があると思います。

「その先にあるもの」を見ずして「あらゆるものを否定」するのであれば、生きている意味も修行している意味も全くないことになってしまいますね。そうではありません。

Q空の思想を突き詰めると、生きることも死ぬことも同じことのように思ってしまうのですが、いかがでしょうか?

Q「空」の真理に寄っていくと、社会に対する執着が消えてしまうような気がするのですが、どうやってバランスを取っていらっしゃいますか?(そもそもそこに執着する必要が無い、というのが本質だと思うのですが)

A「生」は「死」の対義語ですし、逆もしかりです。ということは「生」は「死」によって概念が定義づけられ「死」は「生」によって意味が確定されます。「生死」は相互依存になっています。つまり「生死」にそれぞれの別個の意味を見出してしまうのは「戯論」だと言うことになります。

その意味で「生死」はおなじこと、というか「二つの対立概念があって、それが同じ事」というのが既に戯論です。ですので「空」の見地から「生死」を見ると、もともとそれらは「空性」を本質としているものであるが、縁起によって「それぞれの相」が示されている。という感じになります。

もう少し具体的な例として「水」を考えてみましょう。

「水蒸気」も「氷」も同じ「水」の「相」の現れ方の差違です。ですので「これは水蒸気と言う存在だ!」「これは氷と言う存在だ!」と言うような「絶対性」を前提に捉えるのは間違っています(戯論)、どちらも「水の相」です。しかしと言って「水蒸気も氷も本来水なんだから、その差異はないよ」と言ってしまうのも戯論です。

このような「空」という概念に拘ってしまって「空に執着する」のは「シューニャタードリシュティ=空見」と言って注意が必要な誤った境涯です。この誤った境涯で認識された「空」の概念は「悪取空」といって忌まれます。スピリチュアル界隈などで「何も存在していない」「すべては幻だ」と言い切ってしまう論者をたまに見かけますが、正統大乗的に言えばそれらは「空見」で「悪取空」です。

そうではなくて「究極的本質」としては「水」なんだけれど、縁起の結果、今現前に「水蒸気」や「氷」として「相が示されている」と捉えることが重要です。そして示された相は、同じレベルで示された相である我々自身にとっては意味のある実在として機能します。水蒸気でものは冷えませんし、氷で部屋の加湿は出来ません。もし、我々が真の涅槃に入って「究極的真理」の存在となったときには、水も蒸気も氷も、全くその区別の意味が無い状態になるのでしょう。しかし今はそうではありません。水は水、蒸気は蒸気、氷は氷です。

仏教は頭の中だけの思想遊びではありません。現実に存在している、生命体の幸せに直接寄与する為の思想、方法論の集成であると考えます。

Q瞑想や修行で得た体感を雑多な現実世界で活かす工夫はありますか?

Q仏教の考え方を、理解や精神論だけに留めずに、日常生活や決断の場合に活かしたいのですが、なかなか体現できません。どうすればいいでしょうか?具体的なアドバイスがいただけると嬉しいです。

Aそもそも、修行などは現実社会で活かされなければ無意味であると思っています。

修行した結果を実社会で活用できない、修行した結果、現実社会で生きていくのが嫌になった、そういう話は時々耳にしますが、非常に残念だと感じます。使えない自己満足や社会不適合者をつくる修行って、いったいどういう意味があるんでしょう?

まともな修行というものは、自ずからどんな状況にでも応用されるものだと思っています。そうでなければ「真理」とは決して言えないと思います。

「通常の言語で認識される世界は戯論でバーチャルだ」「すべてのものは空性でありうつりかわっている」そのような認識は、どんなときにでも役に立つはずです。

「知る→わかる→できる→できている」

というプロセスで「仏教が己の身において出来ている」状態となれば、何も恐れるものはなくなるでしょう。釈尊は「死さえも超越する」と説いています。

そのためには「体感」が必要だと真言密教は考えています。その体感のために、瞑想や山岳修行など様々な「修行」を行います。また逆に日常生活に活かし出されることのない「修行と呼ばれる行為」は無意味です。

「知識・理解・精神論」にとどまってしまうのは「体感」が欠けているからだと思われます。この体感というのは筆舌には尽くし難いものがあります。たとえば「自転車の乗り方」「けん玉のコツ」などは言葉で説明できません。それを説明できるつもりでいると、まさに「戯論」の世界です、真理の開眼のためには「自分で体験して会得すること」以外にありません。その為には「良き師」に巡り会い「まっとうな修行」を行うことが早道です。

Q聖職者として、ブッダやナーガールジュナの教えに矛盾を感じたことはありますか。

Aいまださとらぬ身としては、理解が及ばないことは多々ありますが、矛盾や誤りというものは感じたことがありませんし、無いと思います。

恥ずかしながら実は過去、上座部仏教に傾倒していた時期に「日本の真言宗なんて、雑物が混じった不純な仏教だ」と見下していたことがあります。しかし、なぜか自分が真言密教の僧となり、本格的に学んでみると、とてつもなく奥深く高度な教えであることが理解できてきました。それ以降、理解が及ばなかったり、反感を持つような表現があったりしても、それは自分がまだその真意を理解できるレベルにないのだと思うようにしています。

Q日本人は「思想」へのアレルギーがある気がします。より多くの人に知ってもらうためにどのようなアプローチが有功だと思いますか?

Q宗派を超えた次世代の仏教のあり方のためにどのようなやり方が有効だと思われますか?

Aまさにここに四苦八苦しております。誰か助けてください(笑

現時点の分析としては、まずもって「寺院・僧侶」と言う存在に対する認識が望ましくない(葬式、観光、いんちき、銭ゲバ、等)ので、これを変えていく努力が必要と思っています。

具体的には「まともな僧侶」「まともな寺院」の実像を提示すること。見たことも聞いたこともないものを評価せよと言っても無理ですから、まずは「やってみせる」。

その意味での仏教徒協会であり、実験寺院です。
仏教徒協会と実験寺院が分離しているのにも意味がありまして、在家と出家は明確に区別されるべきと考えています。出家者は世俗に関わるべきでなく、在家者はまともな出家者を保護し、そこから英知を引き出す、一方腐敗した出家者を排除する。はっきりした役割分担が為されているのが、海外の「本当の仏教国」のあり方であると現地を見て思います。

つまり、実際に今そうしていますが、寳幢寺所属の僧侶(私、龍源)は完全に個人の財産を放棄しています。本当に無一文です。全部、仏教徒協会に寄付しました。すっからかんです。在家仏教徒の団体である日本仏教徒協会は、皆様からのご寄付を管理し、適切に運用します。私の食事などは、すべて仏教徒協会の方から支給されていますし、必要物品は都度お願いして買ってもらっています。

お坊さんがお金を持ち管理し、ましてや自分で稼ぐ、となると絶対にゆがむ。これは確信を持ってそう思います。釈尊もその前提で組織設計をなさっています。日本ではこれが出来ていないので、お坊さんが個人事業主のようでお寺が個人の事業所みたいになってしまっています。

これを打破したい、まずは自分がやってみせる。そう思って取り組んでいます。

これが実現すれば、僧侶になろうというのはよほどの覚悟がある人に限られてきます。能力が無ければ在家からパージされる。それが望ましい。僧侶の能力って何だろう?考えたことありますか?何にお金を払うんだろう?お坊さんに何を期待しますか?そしてどんなアクションを取りますか?巨大寺院、名刹古刹の住職は優れた僧侶ですか?基準は何ですか?イメージが無いと思います。まともな能力がある人がきちんと評価される仕組みが必要。そう思います。

寺も単なる文化財ではないはずです。仏法が活躍する場でなければ「寺」とは言えない。別段に立派な伽藍などいらないのではないでしょうか?伝統建築の大きなお寺、年間の維持費いくらかかるかご存じでしょうか?とんでもない金額です。そのお金があれば、もっと社会貢献できるのではないでしょうか?

いま、これからの仏教、僧侶がどうやったら良いだろう?どんな未来を望むのか?実験寺院で何しよう!?そんなことを皆さんと楽しく共有できるオンラインサロンの設置を協議しています。是非皆さんのお知恵を拝借したいです!

Qすべては移り変わるとは言っても、変わらないものもありますか?ハッピーになりたいという思いなど。

A変化しないもの、は存在しないと考えます。「幸せ」の概念も戯論による固定的概念ですから崩壊もすれば変化もします。状況によって意味は変化します。

そもそも「幸せを求める私」という構文が「歩く人」と同じ構造ですから、私も幸せも求めるという行為も真理としては固定的に存在できません。しかし実際に外を見れば誰かが歩いているという事実はあるわけで、幸せを求める誰かは存在し続けると思います。

といって、そこで幸せを求めている誰か、は変化の中に在りますし、求められている幸せも、その指し示す意味は変化しています。戯論です。

生命体が「ハッピーになりたい、ハッピーでありたい」と願うのは、おそらく永遠不変の真実ですし、そこを基盤に仏教は構成されています、が「ハッピー」の意味は揺らぎますし「ハッピーになりたい思いがあって、それは不変だ」と考えてしまうと、戯論ですからそこを軸にして「苦」が立ち現れてしまう。

だから一旦は「不変なものは存在しない」と斬って捨てる必要があるという所でしょうか。

このあたりが中観哲理のメンドクサイ(しかし真理な)ところで、戯論による俗な世界認識を、一旦は否定し尽くさなければ「聖」の真理は立ち現れないという構造です。

Q死んだあとは空なのでしょうか、生まれ変わるイメージなのでしょうか

A本来万物の本質は「空」と考えますので、生命体としての活動を終えたら「空」に還るのが当然です。しかし「私は私であり続けたい」という生命体としての根源的な「欲」が作動すると、それを「縁起」として新たな身体を持って生まれ変わると言う現象が起きるのだと考えています。

ですので、万物の空性を本当にさとった聖者は「空」に帰して自由自在になると考えますし、存在に対する執着を捨てられなかったものはまた存在の世界に生まれ変わると考えます。

Q物理学との類似性をとても感じます。量子論と呼ばれるミクロな世界と、宇宙の世界の話と空の思想がとても近いと感じます。あらゆるスケールでフラクタルな世界があって、実はものは存在していることが証明されず、スカスカでもあり、波のようでもあるともいいます。龍源さんは物理学に親近感は感じられますか。

A量子力学との親和性は非常に強く感じます。特に弘法大師の密教はその構図が強いと感じています。具体的なことはここでは憚られますが、認識が世界をつくっているという唯識的世界観は「シュレーディンガーの猫」を想起させますし、万物の根源は波動であり光であり、その波動から粒子がつくられる。と大師は言っています。

私に量子力学の専門知識があるわけではありませんし「同じ事を言っている!」というのは早合点に過ぎると思いますし、量子論と仏教が同じ事を言っているから何なのだ、とも思います。しかし、いわゆる「アナロジー」的に極めてよく似たことが言われているというのは興味深いですし、難解である密教哲学を理解する便となるという意味で注目しています。

Qラジオではマトリックスの話が出ていましたが、密教の理解に近いおすすめ映画、アニメ、漫画はありますか?

Aまずは『攻殻機動隊』とくにGhost in the shellとStand alone complexでしょうか。ariseはちょっと違うかな?
あとガンダム(ファーストシリーズ)「ニュータイプ」と言う概念は密教僧が目指すところなのかもしれません。
映画だとマトリックス、インセプション、テネット、ブレードランナー
スターウォーズも所々「?」がありつつ良いと思います

哲学関係ないけど『3×3EYES』好きです。梵字とか出てくるの格好いいなーと思って読んでました。
『風の谷のナウシカ(コミック版)』は「善悪」を考えさせられますね。シュワの墓所が「悪」でナウシカが「善」なのか?ミラルパやナムリスは「悪」か?

善悪という意味では中学生頃に大好きだった『ロードス島戦記(小説)』から結構影響受けている気がします。

神話の構造とかに興味持ったのはこれもあるかもしれない。善悪どっちに偏りすぎても大破壊が起きるから、バランスを保たなければと歴史に暗躍する「時の魔女カーラ」が悲しくて印象的でした。

「カーラ」ってサンスクリットで「時間」とか「暗黒」「闇」という意味なんですよね。

Q空を理解するためのお勧め本を教えてください!

Aたとえば
・『龍樹『根本中頌』を読む』桂紹隆・五島清隆/著(春秋社)
・『中論の思想』立川武蔵/著(法蔵館)

がお勧めです。伝統的に、仏教者がどのような就学をしてきたかというのが知りたければ

・『中論註『正理の海』』ツォンカパ/著 クンチョック=シタル・奥山裕/役(起心書房)
が良いでしょう。

Q密教で理論が体感に落とし込まれた時の経験を聞きたい。修行が厳しいイメージがありますが、体感を得るには死ぬ思いしないといけないの?

A私の場合は体感が先で理論が後というパターンでした。一旦、そのことで「何かがわかりはじめた」その後は、「知っていた」知識が「なるほど」という体感になって腑に落ちる体験をしています。密教の場合は「理論」を「シンボル」として情報圧縮しています。その伝え来られてきた「シンボル」は「それ」を体感するまで意味がわかりません。その状態ではただの「おまじない」や「ごっこ遊び」に等しい。しかしそこに意味があります。それまで意味もわからず、ただそう言われているからそのようにやっていたことが、ある瞬間に突然「あ、なるほど。これか」という体験をします。「それ」が体感された瞬間に「これを表現するにはこれしかないよね、確かに」という風な理解になります。

武道などスポーツや楽器の演奏なども同じだと思います。究極的な部分はある種の「クオリア」(ククッと、とかガツンと、とかサラッと、等)でしか伝達できません。その「ククッと」というのが体験されないうちはその本意はわかりません。しかし「それ」が体感された瞬間に「あぁ、ククッと。って確かにそうだね」となりますし、また「それ」を誰かに伝えようと思ったら、やっぱり「ククッと」としか言えないでしょう。

「それ」を体感するための行うことが「修行」ですが、必ずしも「厳しい」必要は無いと思います。しかし、必然的に「厳しくなる」と言う傾向はあるとも思います。

なぜかというと、仏教的ブレイクスルーは「無意識に拘っていた自我のありかたの崩壊」と同義だからです。そういう意味で「自我」の根源の出所となっている自分の生命を賭するというのは手っ取り早い方法です。例えば私は60メートルのほぼ垂直の崖を、命綱なしで素手で登るという修行を何度かしたことがあります、一歩間違えば即死です。その状況下では、人間は異常な集中力を発揮します。そうなっているときに、後から考えれば「無我」の境涯にあったと思い返すことが出来ます。命をかけて崖を登っているとき、くだらないこだわりとか、悩みなどは一切、心の中から消えています。

全神経は手や足がかかっている岩の窪みや出っ張りに集中しています。ミスを犯さず、死なずに崖を登り切るという事以外に向いている意識はありません。と言うよりむしろ何も考えは浮かんできません。一瞬一瞬に全集中しています。「無我」に近い境涯を体感しています。それを一回でも体感していれば、日常生活の中で、その状況を呼び返すことも出来ます。

そのような意味で「厳しくない」修行で「体感」を得るのは簡単ではないと思います。命を賭けなくても、例えば他には「無意味なことを全力で延々とやり続ける」ということが「修行」になってくると思うので、やはり「厳しい」かもしれません。そう考えると「瞑想」とくに我々の「リアウェアネス」は非常に楽ちんで効果的な修行だと言えますね。

Q瞑想し神秘体験を得ることがどのようにBeingにつながるのでしょうか?

Aものごとを「真に理解」し「本当に出来ている状態」になろうと思ったら「体感」するほか無いと考えます。マニュアルを読み込み、完全に覚えていても、実際に機械を操作する事とは根本的に異なります。

弘法大師は密教の優越性としてこの「体感すること」を挙げ「薬の処方箋を読み上げても病には効かない。薬は飲んで初めて効力を発揮する」とたとえておられます。

瞑想とそこから得られる体感は、ある種「さとりの疑似体験」のようなものですので、その体感を積み重ねていくことが「仏教のBeing」に直結すると思います。

Q空を根底に考える時、五感はどのような説明になりますか?

A大乗哲理、特に唯識ではいわゆる「五感」を詳しく分析的に捉えています。認識する力を「識」/認識するために情報をキャッチする器官を「根」/認識される対象を「境」と言って、それぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識/眼根・耳根・鼻根・舌根・身根/色境・声境・香境・味境・触境としています。

そしてこれらそれぞれに「五蘊」のはたらき=「色受想行識」という認知プロセスが作用しているとします。有名な『般若心経』はこの「五蘊」を「皆空」と説いています。

つまり結局五識も五根も五境も五蘊もすべて形而上的に「空」であって、形而下においては「仮」として存在していると考えるので、五感と言われる感覚も、その感覚がキャッチする対象も、すべて「仮設」としての、実体がないバーチャルな「現れた相」であるという説明になるかと思います。

Q子供に伝えやすい方法はありますか?

Aそのお子さんのその時点での興味や資質にもよるかと思いますが、難解な仏教哲学を説いても難しいと思われますので、子供のうちは「聖なる世界が存在する」「神仏という、この世を救う力を持った聖なる存在がある」「思想哲学、世界観は極めて大切であるし、変な世界観を持つと身を滅ぼす」と言うようなことを、それこそ「体感的」に教えてあげれば良いのではないかと考えます。

具体的には「聖地」と呼ばれるような所に一緒にでかけて、作法どおりに手を合わせたり、礼拝したりする。仏陀や弘法大師の伝説などを読み聞かせたりする。家庭に尊像や仏壇などを安置して、礼拝する姿を見せる。思想哲学について家族で話題にする(正義って何だろう?悪とは何だろう?過激派ってどうなの?幸せってどういうことかな?)等でも十分に意味はあると思います。

そのようなことはお子さんの情操を育て、世界を豊かにする力があると確信しています。

Q現在海外にいます。最近は高野山なども海外の方がたくさんいらしてますが、キリスト教圏の人に、密教とは(またはもっと大雑把に日本での仏教とは)を説明するとき、何を説明すれば皆さん腑に落ちるでしょうか?海外の方への説明をされるとき、必ず入れるトピックなどあればご教示下さい。

Aまずキリスト教などと比べて、仏教最大の特徴は(これはなかなか理解されませんが)自分自身が「仏陀になる」という方向性を持つことでしょうか?キリスト教徒はさとって(?)「聖人」には列せられますが「神」になることはあり得ません。

キリスト教文化圏で本気で「私は修行して神になる!」等と言おうものなら、良くて発狂者扱い、悪くすると異端審問で悪魔教認定で火炙り死刑です。

仏教では仏陀も天の神々も、人間も豚も犬も地獄の亡者も、全く同じ「空性」から立ち現れてくるものですのですべて平等ですが、キリスト教ではそんなことあり得ません。「創造主>被造物」と言う構図は絶対です。ここは大きな問題で「コンパッション」といっても、キリスト教的発想ベースでのコンパッションなのか、仏教ベースでの慈悲なのか、実はかなり違う概念になってしまうと思います。

その前提があって、説明するとすれば「仏教」とは自我の範囲を無限の果てまで拡張するための修行ですよ、という感じになるでしょうか?

ロゴス(個別の合理性)からホロス(全体調和)への道という言い方も出来ると思います。

「ワンネス」とか「サムシンググレート」等という概念もありますが、仏教としては若干違和感があります。垂直方向のヒエラルキーが隠れている気がします。そうではなくて、縦軸も横軸も意味消失した多重連環共鳴の世界観が仏教、特に真言密教だと思います(曼荼羅世界)。

Q夫と人生の目的が違ってしまった時、どうしたらいいでしょうか

Aそもそも「中観」的に考えると「人生の目的」が確定的に存在すると思うのは戯論ですし「違う」「違わない」の対立も典型的戯論です。本質的には存在していません。すべては縁起によって移り変わっていきます。違うことが違わなくなり、違わなかったものが違っていくのは当然のことです。仮に設定されただけの「目的」や「異同」に心を振り回されるのは良い選択肢ではないかもしれません。

また「目的が違う」ものが時空間を共に存在しているのは「悪い」事かどうかもわかりません。目的が違うのに、時空間を共に出来るのは素晴らしく良いことかもしれません。

問題は「こころ」が何を感じるか?です。良い悪い、違う違わない、「目的」が「ある!」という概念を固定的に考えてしまうのは、確実に「苦」を生みます。

ですので「万物の根源は空性である」という概念を受け入れて、柔軟に、こころを平安にコントロールできるように調整してみては如何でしょうか?釈尊や弘法大師は「それは可能だ」と仰っておられます。私はそれを信じています。

Q密教の一宗派である修験道において、入山制限などに見る男尊女卑の考えはどのようにして生まれたのか?

Aこれは少し事実誤認があるように思います。修験道は確かに「女人禁制」の伝統を持ちますが、これは「女性蔑視」とは無関係です。

そもそも山岳修行は非常に危険な修行です。身体能力、体力が、一般論として男性に劣る女性が、男性向けに設定されている「行場」に入っていくのは危険すぎます。また、そのような理由から本来修験道は「男性」のための、クローズドなサークルであったと言うことが出来ます。

そこでは「男性のみしかいない」という前提で、様々な話題が提供され、作法やしきたりが形成されていきます。実際、修験ではある種卑猥な、性的なメタファーを使った儀礼やものの考え方をすることがあります。女性も見ていると思うと、多分お互いにあまり良い気持ちはしないと思います。

現代の男子校や女子校をイメージするとわかりやすいでしょう。最近はよく「女子会」等という言葉も聞かれますね。

「女子会」という、女性しかいない設定の会なのに、男女平等だと言って男性が混じり込んでくるのは歓迎されないでしょう。女子校なのに、男女平等と言って無理矢理男子学生が乗り込んでくるとおかしな事になります。

そういう意味で修験道は「山岳の男子校」です。女子が入り込んでくると、男性修行者としては、ちょっと困ります。助平心が出てきて気が散ったり、良い格好しようとして事故が起きたり、そのようなことがあると困るので、ルールとして「女人禁制」が設定されています。

逆バージョンも実際にありますね、沖縄地方の「ウタキ」と言う聖地は男子禁制の、女性修行者のための場です。

Q化学者なんですが、唯識の思想と実在論のいいとこ取り、というか、両立って可能なんでしょうか…

Aむしろ、すべての「実在」とされているものは、認識されることによって「実在」という地位が与えられていますので、両立、というか「実在していると思っている」と言うことでしかないと考えます。

その意味で「一切唯識」はどうしようもなく正しいです。

Q「COTENラジオ」のファンです。以前、三蔵法師玄奘の会て語られた「2つの才能を掛け合わせることができた人が歴史に名を残す」の話が好きです。河口慧海さんなど、冒険家のスキルが仏教にどのように影響を与えてきたか知りたいです。

A現代では情報技術の発達によって、座っていながら全世界の情報を(ある程度は)取ることが出来るようになってきましたが、過去はそうではありませんでした。

チベットの情報を取ろうと思ったら、チベットまで行かないとどうしようもなかった。玄奘三蔵は唯識系のオリジナルな経典という情報が欲しかったので、命がけでインドまで出向かれました。

その世界では「冒険家」としてのスキルが無かったらどうしようもありませんし、そのような方々のおかげで、少しづつ、冒険をしない人々へも新しい情報がもたらされ、研究が進んでいったという事実があると思います。

現代でも、やはりネットで得られる情報には限りがあるので、現地に行って、実際にその空気に身を浸すというのは重要です。情報量の桁が違うと思います。

Q龍源さんが生きているうちに成し遂げたいことはありますか?

A究極的には、生きとし生けるものすべてが「苦」を離れて、真の安寧の中にいられるような状態へと導くことですが、私個人の力、寿命では到底無理でしょう。

そこで、私としてはその方法論を「仏教」に見いだし、仏教を活用して目標の実現に迫れるようにと言う思いでいます。その意味では、絶対に仏教でなくてはならないとは思っていません。現時点で、私に許された最良と思える答えが仏教であると言うだけです。

具体的には、南方上座部やチベット仏教には強力な担い手が存在し、機能していますのでそれで良いとして、第三極である日本仏教が残念なことに衰微しているので、それを復興し、威力を発揮させることが出来ればと考えています。

まず私が日本人であると言うこと、そして選択肢は多い方が良いですし、上座部ともチベットとも違う日本仏教独自の良い点があると信じているからです。

と言ってこれも私個人の能力と寿命では無理だと思うので、そこへ向かう糸口、仕組みというのを起動させることが出来れば、そう思っています。

Q幽霊とはなんでしょうか?

A様々な解釈があろうかとは思いますが、私の見解としては、ひとつには「何者かが存在したという痕跡」そして「それが『幽霊』という言葉と概念で認知されたもの」と言うように捉えています。「幽霊」あるいは「霊魂」という存在が「ある」と言う風には、当然ながら全く考えていません。

しかし、まぁあんまりオカルトなことは言いたくないのですが、密教僧をやっていますと、時たまに「幽霊」「霊魂」という言葉概念で表現される現象に遭遇することもあります。そのような経験から言えば、それらはある種「らくがき」のようなものと感じます。変な感じですか?

何らかの意図を持った存在が壁に「らくがき」をします。そこには何かの表現したい意図があります。観光地などに行くと「XXX参上!」とか、ばかばかしい落書きありますよね。鉛筆で書いた、ナイフで彫りつけた、岩に鑿で刻んだ、様々な書き方があります。

同じようなもので、幽霊と呼ばれる存在も所詮は死者ですので、もうそこにはいません。痕跡です。しかし、それらにはその痕跡を残したいという意図があってそこにそのように残っています。その意図には強弱があって、すぐに消えてしまうものもあれば、なかなか、長く残るものもあります。うっかりつけてしまった痕跡もあります。絶対消されないようにしようという強い意図を持ってつけられた痕跡もあります。

しかし、すべては縁起の結果としての「痕跡」という「相」です。その「相」を「幽霊だ!」と言う戯論で認識が見るので「幽霊だ!怖い!」という認識が確定します。

私としては基本的に死霊より生霊が怖いです。死霊は出処がもう死んでしまって存在していない痕跡ですが、生霊は発生源がまだいますので、嫌なものです。

もうひとつのパターンとして「神」「鬼神」「妖怪」「低級霊」と言うようなものもあると感じます。

どれも結局その本質は「空性」であるのに違いないのですが、縁起の結果として我々と同じように存在しているという「相としての実存」があり得ます。このあたりは経典儀軌に根拠のない私個人の私説と言うことになりますが、山で修行などしているとたまにその存在を感じることもあります。

感覚的には電磁波の一種かなと感じます。見えないし聞こえませんが、確かにそこに「何かある」。

また彼らは何らかの意図を持っているようにも感じます、私たちと同じように。しかし基本的に彼らは私たちと住んでいる世界が違うので、関わり合いになることはないですし、関わらない方が良いと思います。たとえばニュートリノなどは毎日我々をすり抜けて飛んでいますが、一切関係ありません。ニュートリノがぶつかると痛い体になってしまったら困ったことになります。

超能力者というのは存在すると思っていますが、超能力者になる、である、ということは別段に良いこととも思えません。こころの平安、真実の充足、安寧とは関係ありません。

Q仏教が本来目指している「救い」とは…?

A「個別の存在」として存在している認識力を持った生命体(有情と言います)が、真理をさとって「苦」の原因をつくらず、「苦」が縁起せず、「苦」をその個体に成就させないような智慧を得ること。

でしょうか?

簡単に言うと「everybody Be Happy!」と言うことだと思います。

その為には自分の心以外にものに自分の幸せを依存させてはならないと説きます。「お金がないから」「地位がないから」「容姿が気に入らないから」「身長が低いから」「生い立ちが不幸だから」云々、これらはすべて「今のこの瞬間の自分自身」とは違うものです。そこに目が行ってしまうと固定的な見解に陥って、こころが自由でなくなってしまう。それを避けるために仏陀や龍樹は「無我」「無自性空」等を説かれました。それを理解するためには「戯論」を離れた知性「プラジュニャー(般若)」の智慧が要求されますし、それは修行によって体得されるものです。

Q子供の名前を決める際に注意すべき点や、アドバイス等、仏教的視点から何かあれば御教示頂けますと幸いです。

A中観的に言うと「名前」等は記号に過ぎないわけですが、今度は唯識的に言うと「名前」は「それ」に対する認識を左右する大きなファクターでもあります。

そういう意味で、子供さんの名付けについては、将来に亘って、その人が自分の名前に誇りをもてるように、その名前で想起されるイメージ(他者からの認識)が、その人の肯定的な面を育てるように、そのような心構えを持ってお考えになると良いかと思います。

流行に乗っただけのものも難しいでしょうし、過大に凝った名前もしんどいでしょう。

何よりも大切なのは、名付けをしてくれたご両親が、どれだけその子のことを思って名前を考えたのか、それが伝われば、きっと良い名前であるという認識が確定していくことと思います。

Q不要なプライドをどうすれば剝がすことができるのか

A「不要」「必要」の区別が戯論ですね。「プライド」という存在もプラパンチャです。その「不要」な「プライド」の出処である「わたし」も戯論です。

そのような認識を体感として持っていれば、形而下世界でまさに「苦」を生み出す自我意識は剥がれていくでしょう。

Q功徳とはどのような行動・行為を指すのでしょうか。

A「功徳」とは「それによって自分自身が幸福へと向かっていく縁起」と捉えれば良いと思います。

その最大にして最も確実な方法は、それを実現なされた仏陀にこころと行いを合わせていくことだと、仏教では考えます。

ですので、仏法を聴聞するのは功徳ですし、仏陀の説かれた真理が書き記されたお経を写すのも功徳です。瞑想修行も功徳が大きい。最も簡単なのが、その尊い道を実践している修行者を支援することです。

彼らは皆に代わって厳しい修行を積み、世界を幸福へと誘う努力をしています。それらに支援の手を差し伸べることは、彼らの行いに自分の力を注ぎ、一体化して作用していくと言うことに他なりません。彼らに与えられた幾ばくかの食物、幾ばくかの金銭は、彼らの行動の原資となって作用し、あなたの与えたなにがしかが世界を良くすることに役立っていきます。これは巨大な功徳です。

ですので、単にお寺さんにお金を渡すというのが功徳ではありません。

きちんと理解して、自分がやりたいと思った支援をすることが重要です。むしろ悪い行いを為す、偽の仏教者を支援してしまうことは翻って悪業を積むことにもなりかねません。世界を悪くすることに手を貸してしまうことになります。注意が必要です。

また自分個人の欲望を満足させるためにお賽銭などを積むのは「功徳」とは言いがたいです。それはギブ&テイクのお商売ではありませんか?神仏と取引をしようというのは褒められた志ではありません。

Q現代の仏教では自死をどう解釈しているのか、どう捉えているのかを知りたいです。

Aこれは非常に大きな問題です。そう簡単に答えが出せるものでは無いと思いますが、私なりの見解を述べます。

まず第一に、仏典をひもとくと、お釈迦様がお弟子さんの自死に遭遇する場面があります。調べましたが3カ所ありました。原始仏典に属する『サンユッタ・ニカーヤ』という経典群の『マーラ・サンユッタ』『カンダ・サンユッタ』『サラーヤタナ・サンユッタ』という小篇に出ています。

『マーラ・サンユッタ』では「ゴーディカ」という僧侶が

『カンダ・サンユッタ』では「ヴァッカリ」

『サラーヤタナ・サンユッタ』では「チャンナ」という僧侶が自死したというエピソードが出てきます。

ゴーディカは修行がうまくいかないことを苦にして、ヴァッカリとチャンナは病気の苦しさに耐えかねてそれぞれ死を選びます。

その事実に直面して、お釈迦様の側近達はざわめきます。これは戒律が禁止している「殺人」ではないか?自死は大罪ではないのか?これらに対してお釈迦様はそれぞれ次のように仰ったと伝わります。

・ゴーディカに対して
「思慮ある人々は、実にこのようにするのである。生命を期待していない。妄執を根こそぎえぐり出して、ゴーディカは安らぎに帰したのである」
・ヴァッカリに対して
「比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、その魂がどこかに止まることなく、完全な涅槃に入ったのである」
・チャンナに対して
「だれかが存在し続けると言うことに執着するならば、そういう人が非難されるべきだとわたしは言う。しかしチャンナ尊者はそうではなかった。だからチャンナ尊者は非難されるべきことはなく、刃物を手に取ったのである」

釈尊は何も批判も否定もなさっていません。ただそれでよい、と仰っています。

似非霊能者が「自殺者は地獄に落ちる」とか、中途半端な僧侶が「自死は自分殺しの大罪だ」等と言っているのを耳にすることがありますが、私は全く同意できません。お釈迦様の御心は計り知れませんが、少なくとも、自死するほどつらかった死者にむち打つことに何の意味があるのでしょう?

日本で有名なとある上座部僧(自称どこかの国の大長老だそうです)が、上で引きました経典を以て「これらはきちんとした、さとる寸前の修行者のことであって、普通の俗人の自殺は単なる愚かな負け犬だ」等と放言したのを目にしたことがありますが、私はこれは唾棄すべき態度だと思っています。同じ仏教者として許し難い。かつて大乗仏教の祖師たちが、口を極めて「小乗」と罵倒した理由もわかる気がします。

「慈悲」等と大上段に振りかぶるつもりもありませんが、自らその命を絶つところまで追い込まれた方々へ向かって、追い打ちをかけるというような心理は一体何なのでしょうか?理解できません。

実は私も、とても身近な人の自死に向き合ったことがあります。今行っているこの「実験寺院」という活動を一緒にやろうと、互いに励まし合い支え合ってきた尊敬する先輩が自らその命を絶ってしまわれました。人間関係や体調のこと、自分の心の問題など様々なことに苦しみ抜いた結果だったと思います。世の中にこんなに真面目で優しい人がいるのかと思うような、純粋な方でした。

「生きていてくれさえすれば・・・」未だにその思いはことごとに甦ってきますが、死ぬほどつらかったであろう彼にそれを強制することは出来ません。

「彼は自由になろうとして、そうしたのだ」それでいいじゃないか。彼は自由を得た、よかったじゃないか。そう思います。それを否定し、けなす権利は、何人たりともそれを有してはいないはずです。

人として生きて、苦しすぎて、自ら命を絶つ。それは悲しく、気の毒で、つらい現実です。出来たら回避したい、させたいです。しかし、本人は思いを遂げたのではないですか。それでいいじゃないか。そう思います。

せめて、彼らが本当の自由のなか、快適であるように、私は祈ります。

我々の心の中に生き続ける彼らが、素晴らしいものであるように、自分の生命を輝かせつくしたい、そう思います。